リフォーム通信 社長BLOG

2014.11.28更新

天下布武

3年振りに岐阜城登城、毎度毎度この天守閣からの眺めは最高

しばし、信長公の気分に・・・

下記ウィキペディアより
岐阜城(ぎふじょう)は、岐阜県岐阜市(旧・美濃国井之口)の金華山(稲葉山)にあった日本の城(山城跡)。織田信長が、斎藤龍興から奪取した稲葉山城の縄張りを破却して、新たに造営したものが岐阜城である。城跡は岐阜城跡(ぎふじょうあと)として国の史跡に指定されている。
『信長公記』に、「尾張国小真木山より濃州稲葉山へ御越しなり。井口と申すを今度改めて、岐阜と名付けさせられ」と記載されている。稲葉山(井口山)からの続きが瑞龍寺山という。














投稿者: シーダークリエイト株式会社

2014.11.25更新

先月、登城した長野県千曲市にある<荒砥城>

大河ドラマ<風林火山>の撮影でも使われたお城です

この日は天気も良くて、最高の景色でしたscissors

下記、ウィキペディアより

この地の豪族で村上氏の一族の山田氏の居城であった。村上氏の本城、葛尾城の支城としての役割を果たしていた。
天文22年(1553年)には武田信玄により葛尾城が落城すると、武田氏に従った屋代政国の替え地として、荒砥城を与えられ屋代城から移った。
天正10年(1582年)、武田氏が滅亡した後は、屋代秀正が上杉氏に従い海津城の副将として遇された。しかし主将の山浦景国(村上義清の息子)とはしっくり行かなかったようである。村上氏一族の中で最初に武田方に寝返った屋代氏は信頼されず、上杉景勝は稲荷山城を築いて監視していた。天正12年(1584年)4月1日、秀正は徳川氏に通じたため上杉景勝に攻められ、荒砥城に火を放ち、徳川の下へ出奔して旗本となる。荒砥城は以降、廃城となった。しかし屋代氏出奔後の領地の一部は景勝の人質となっていた真田信繁(幸村)の領地として与えられたとされている。
現在は千曲市城山史跡公園として整備されている。館や兵舎、櫓など中世の山城の雰囲気を再現しており、平成19年(2007年)の大河ドラマ「風林火山」(ドラマでは海ノ口城として使用。)平成23年の大河ドラマ「江~姫たちの戦国~(小谷城として使用)のロケ地として使用されている。

















投稿者: シーダークリエイト株式会社

2014.11.23更新

私が初めてお城に興味を持ったのが小田原城でしたpunch

貧乏大学生でしたので実家の三島から東京へ行く際は新幹線など乗れず、JRプラス小田急線で行きました・・・

そうなると小田原乗換になるので自然と小田原城に興味をもつようになっていきましたhappy02

今でも年に2~3回は小田原城を訪れています、その後 天気がよい時は石垣山一夜城から小田原城を眺めますeye

今日も天気がよく、小田原の街と相模湾が一望でき、活力をいただきました・・・、ありがとうございます














投稿者: シーダークリエイト株式会社

2014.11.18更新

先週末に登城しました岡山県高梁市にあります<備中松山城>です・・・

さすがに日本三大山城の一つ、期待以上でした・・・

下記ウィキペディアより
城跡が国の史跡、江戸時代に建造された天守や二重櫓などが国の重要文化財に指定されている。標高430メートルの臥牛山山頂にあり、現存天守を持つ山城としては最も高い所にある。
現存する天守は、2層2階で、西面に半地下のようにして付櫓(廊下)が附属する複合式望楼型天守である。現在は西面に附属する付櫓(廊下)に開けられた出入り口から入ることができるが、当初は、八の平櫓から渡櫓を経て天守へ至った。また天守に通じる石段は、敵の侵入を遅らせるために、直角に曲げられている。1階には、調理や冬の暖をとるために長囲炉裏が掘られているが、城内で火を使うことは禁じられ[要出典]、ほとんど使われることはなかったといわれている。一段高い場所にある「装束の間」は、城主の御座所であるとされ、また城が攻められた時に城主が自害をするための場所であるともされる。













投稿者: シーダークリエイト株式会社

2014.11.18更新

本日、新宿ワシントンホテルにて2014クリナップリフォームコンテストの表彰式があり、弊社も昨年の初参加から2年連続で入賞させていただきました。

これもお客様・スタッフ・関係者の方々のおかげで心より感謝申し上げます。

来年も入賞できますように頑張りたいと思います。

ありがとうございました。



投稿者: シーダークリエイト株式会社

2014.11.16更新

11月16日秩父宮ラグビー場で母校・明治が王者・帝京と全勝対決sign03

結果は明治がワントライも取れずに、撃沈・・・・

帝京は大学ラグビーのレベルではなく、トップリーグのチームのように強かったcrying

力の差を痛感したが大学選手権では何とか差を縮めてリベンジしてほしい












投稿者: シーダークリエイト株式会社

2014.11.04更新

2014年10月中旬に登城した長野県上田市にあります<塩田城>

遺構もかなり残っており、想像よりもいい印象・・・、途中から険しくなりますのでやはりトレッキングシューズでないとスベリます

下記ウィキペディアより

塩田城(しおだじょう)は、信濃国小県郡(現在の長野県上田市前山)にあった日本の城である。長野県指定史跡

建治三年(1277年)に鎌倉幕府の要職である連署を務めた北条義政が信濃国塩田荘に館を構えたことに始まる。以後、北条国時、北条俊時と3代に渡って塩田北条氏の居城となる。元弘三年(1333年)に鎌倉が新田義貞を中心とする反幕府勢に攻められた際は、塩田北条氏も鎌倉に上り、幕府方として戦うが敗れ、一族とともに滅亡した。以後、南北朝、室町時代を通して村上氏の支配となる。戦国期になると武田信玄の侵攻により城は武田氏の手に落ちるが、上杉謙信の助力を得た村上義清がこれを奪還し居城とする。しかし、数ヵ月後には武田勢に包囲され落城。再び武田氏の勢力下となり、飯富虎昌が城将となった。天文22年(1553年)に行われた第一次川中島の戦いの際には武田勢の本陣となった。武田家滅亡後、この地域は真田氏の支配となるが、上田城の完成により廃城となったと伝えられている。














投稿者: シーダークリエイト株式会社

entryの検索

月別ブログ記事一覧

カテゴリ

staff staff blog